米国出張、学生の論文受理!

 毎回このポストを書こうと入力ページを開くと、前回のポストからだいぶ日が経っていることに驚きます。あっという間に時間は過ぎます。

 先週は米国・サンフランシスコに行っておりました。米国地球物理学会に参加・発表するためです。今回は来年度から博士に行くと言っている学生二人を連れて行きました。お金がかかるので、できるだけ安くしようと航空券を探っていると、一番安いのがホノルル経由のJAL系列でした。ANAだといろいろ特典がつくステータスなのですが、JALは一般人です。かつ、ホテルもできるだけ安くしようと3人部屋にして、ちょっと会場から遠い安宿にしました。評価のコメントを見ると、夜はヤク中が叫んでいるとか、ドアを叩いてくるやつがいるとか、治安の悪い感じです。ですが、そのような場所しか安いところがないので、安くてもまだマシな方、と思われるところを選んで取りました。

 高知から羽田、成田へ移動して成田からホノルルへ。行きはホノルルで7時間ほどあり、荷物を預けたらだいぶ時間があるので、ちょっと観光しようということでパールハーバーへ行きました。日本の冬服から常夏のハワイなので、暑い暑い。いろいろとすでに物価が高い!パールハーバーの荷物預けが7ドル。預けないと入れない。ゲートを入ると、有名な展示物はまた別料金でえらい高い。ディズニー並みです。時間もないので、別料金のチケットは買わず、タダでみられる範囲の展示物を見て、遠くに見える戦艦を見て、ちょっと早めに空港へ戻りました。

 ホノルルからサンフランシスコへ。行きはたったの4時間半。途中休憩できて返って楽でした。到着は夜8時ごろだったかな?治安を考えて、昔よく使ってたシャトルに乗ろうと思ったらどこで乗るのかわからず、インフォで聞くと、もうシャトルはない、3人ならウーバーが安いよ、ウーバー乗るなら上の階だよ、と教えてくれました。ウーバーは使ったことないのですが、すぐにきて、すぐにホテルの前につきました。楽です。その日は、近くのピザ屋でサンドイッチを頼んで部屋で食べて寝ました。

 翌朝から学会です。学会では、日本で一緒に研究したドンや、来年度お世話になるパオラと昼を食べて打ち合わせ、夜はICDP, IODP, 日本人仲間、中華街で盛り上がりました。毎晩飲んで、二日くらいは飲み過ぎました。学生も自分も学会発表を無事終えて、なんだかんだいろいろ聞くものがあり、毎日しっかり座って聞いておりました。禁煙継続中なので、ほんとずーっと座ってます。昔だったら次の話は関係なさそうだからダッシュで喫煙!とかやってましたが、ほんと無駄でした。

 学会が終わっても1日延泊して、ゴールデンゲートブリッジの向こうの露頭を見に、フィッシャーマンズワーフで自転車を借りて行きました。街中では車上荒らしがひどいという治安の悪さを聞いて、レンタカーを諦めていました。定番の、自転車でゴールデンゲートブリッジを渡って、隣町のサウサリートからフェリーで戻るルートですが、その前に西側の露頭を観察します。ひどい登り坂で大変でした。さらに奥のビーチの露頭までいきました。ゴールデンゲートブリッジ渡り切ってから5キロほどで行きはよく、帰りは緩やかな登り・・・。しかもビーチでは潮が高く、露頭が水没して見られませんでした。悲しい。結局サウサルートに着いたのは3時過ぎで、4時15分のフェリーまでにちょっとクソうまいチーズかけフレンチフライをみんなで食べて、フェリーでフィッシャーマンズワーフまで戻りました。フィッシャーマンズワーフでお土産を買って、晩御飯を食べました。

 で、晩御飯を食べていると・・・、一人の学生が

「わっ!アクセプトだ!」

とか言い出して、何を言っているのかすぐわからなかったのですが、なんとついに彼の論文が受理されたようです!なかなかの国際雑誌です。おめでとう!ということで、追いビールで乾杯です。3月に投稿し、リバイス、追加実験、リバイスで3回目の投稿でした。しかも、結構修正していたので、もうワンラウンドあるかなとびびっていたところで無事受理と相成りました。曰く、一人のレビュワーに精査してもらったら、「ちゃんと回答されているので、このまま掲載可能」と言っているとのことです。いつ見ても、I am pleased to infom you,,,の文章はよいですね!

 

 帰りはやはりホノルル経由で帰りは1時間しかなかったですが、セキュリティー内の移動でお土産を買う余裕がありました。ホノルルから今度は成田ではなく羽田で、羽田から高知の最終便へ。このトランジットの予定は着陸1時間ちょいでした。だがしかし現実は20分遅れで到着。飛行機から出た瞬間に名前を呼ばれてモノレールのただ券をもらう。

「モノレールを使ってください!」

この場はこれで終了です。とにかく荷物を取って税関通過しなければならない。税関申請はvisit Japanで済ませ、顔認証登録端末を先に終わらせて、荷物を待ってダッシュするだけです。荷物は着た順からダッシュ。自分の分が最後で、見かねた職員が一緒にダッシュしてモノレールへ。

「2分後のモノレールに乗ったら3分でターミナルに着きますから!」と言われて、ただ券見せてダッシュで改札を通過。

ターミナル1の出発ロビー。どこに行けば良いかわからないまま、接客中のJALの職員を捕まえてspecial supportに行くと、荷物を受け付けてくれるという。この時点でゲートが閉じる時間を5分過ぎている。ゲートが閉じる時間ってなんなんだろう。ではなくて、我々のチケットが航空会社が保証している旅程なので、航空会社も無理を承知なのだろう。わざとやっている感もある。多少出発が遅れても構わないようだ。これが、ただの寝坊だったら相手にしてもらえないと思います。

 しかし、こちらはそんなこと知らない。もう時間がない、出発時間までにゲートにとにかくダッシュだ!と思ってダッシュしまくったら、ゲートはまだ人でいっぱい。よく考えたら俺たちの荷物のせいで遅延してたんだろうね。走ることなかったわ・・・。羽田ダッシュの良い思い出になりました。

 

良い年末を!

ついにドイツに来たぞ

 現在ドイツにおります。いえーい。

 2016年にJSPS国際共同研究加速基金でドイツに一年滞在していました。その時一緒に研究していたドイツ人の友達と新しい共同研究を立ち上げ、2020年に新しい国際共同研究化加速基金を当てました。これは、ドイツにやや長期で滞在して、何か分析するような研究を対象としており、本当は毎年ドイツに来られるはずだったのですが、コロナのおかげで全く来れませんでした。今年になってようやくですね。去年も来れなくはなかったのですが、イギリスでコロナにかかり帰って来れなくなるような日本側の制限がしばらくあったので、躊躇しておりました。

 2017年に帰国して早くも6年が経ち、ドイツ人の友達研究者にも紆余曲折があり、今はハレ大学のフルプロフェッサーとなっています。ということで、私も今はハレにおります。2週間ほどの滞在予定で、現在は5日目かな。分析と論文の打ち合わせを行う予定です。

 日本から飛行機でフランクフルトに夜に着いて泊まり、フランクフルトから電車でハレまでおよそ3時間。ここでもちょっとトラブルがありましたが、無事ハレ中央駅に到着。ハレ中央駅からトラムで大学に行くことになっていました。2番のトラムに乗れと教わって、ホームに行ったはいいけども、どっち向きに乗ったら良いのかわからない。近くに立っていたおじさんに聞くと、

「あ、私もそこに行くところなんだよ。こっちのホームで大丈夫だよ。」

と教えてくれました。なんだか話に花が咲きまして

「どっから来たの?」

「日本です」

「え、ちょうどうちの娘が今日本にいるんだよ。」

「えー!」

と言って、娘さんから送られてきた写真を見せてくれました。

いきなりハレの印象が良くなりました。

が、まだトラブルが続きます。

 

やや長期の滞在なので、キッチン付きのホステルを予約していました。Booking.comの示す場所に行くと、ドアに鍵がかかっていて中に入れない。電話するとドイツ語しか喋れない人が出てきて、全く通じない。この時もう夜7時過ぎでした。テキストメッセージで暗証番号を教えてもらい、それを打ってもドアは開きません。すると、背後に人が来て英語で話しかけられました。

「どうしたの?」

「今日ここに泊まる予約をしているんだけど、中に入れません。ドイツ語喋れますか?」

「僕もドイツ語できない。とりあえず中に入れてあげよう、誰かに助けを頼もう。」

と言って、中に入れてもらいました。全く違う暗証番号でした。

中に入ると上から階段を降りてくるおじさん。

「あなたの助けが必要です。ドイツ語喋れますか?」

「いや、俺もドイツ語喋れない。でもここのシステムに詳しいからなんとかしてあげる。実はここはホステルを管理している会社のメインオフィスがある場所で、実際に泊まるホステルは複数あるんだよ。君の部屋はどこなんだ?」

「え、そうなんですか?!それ超難しすぎる。私の部屋はどこなのか分かりません。」

実際、Booking.comに来ていた長文のドイツ語メッセージにはそんなことは書いていないようでした。しかし、先ほどのテキストメッセージに私の部屋番号が書いてあったのでした。なんとかストリート12のW5だと。それがストリート名でW5が部屋番号だとは思いませんでした。おじさんが指摘してくれて分かりました。今改めて見てみるとどう見てもちゃんと書いてありました。グーグル翻訳したんですけども、把握しきれていませんでした。気が動転していて理解力が落ちていたと思われます。

「俺車持っているから、そこまで送ってあげるよ。」

と言われ車で2分ほどのところに送ってもらい、一緒に部屋を探してくれました。無事暗証番号でドアの扉が開き、マジで安心しました。

「ありがとう!あなたの出身はどこですか?」

ルーマニアだよ。ここではコカコーラで働いているんだ。」

お礼を渡そうとすると、

「いらないいらない、良い夜を!」

と言って去っていきました。

その後、ドイツ人友達とその奥さんと同僚でインド料理屋でディナーを楽しみました。ドイツビールが美味かったです。

さようなら、おめでとう

 昨日、ついに一緒に研究していた中国人の学生が帰国の途につきました。昨日の夕方に授業の室戸巡検から大学に帰ってきて、その足で高知空港まで見送りに行きました。

 早いもので彼が高知に来てから15ヶ月が経ったのでした。彼は中国政府の科学関連組織から奨学金という名目の滞在費をもらっていました。これは中国の博士課程の学生に向けた留学のための奨学金で、彼は正式には中国の大学の博士課程の学生なのです。コロナ禍で散々延期になり、その間に博士を取ってしまうとこの奨学金をもらう権利が失くなってしまうので、博士の取得を遅らせてまでして日本に来てくれました。元々は地質ではなく、実験技術系の研究をしていたのですが、そのテクニックを天然に生かしたいということで、私のところに来たものの、当初は卒論生よりちょっと良い程度の地質学の知識で、どうしようかと思っておりました。ですが、やはり博士に今にもなりそうな優秀な学生であって、ほぼほぼ全くど素人の分野に果敢に挑戦し、まじですごい結果を出しました。ま、やっていることはそれほどすごくなくて、色々な人に助けられてデータを出してもらって、といった感じではありますが、結果がものすごくよかったです。ラッキーです。その上、この研究の設計とデータの解釈については彼の力が大きいのです。このために、大量の論文を読み、もしかしたらこのデータとこのデータはこのように関連しているのではないか?と私の部屋までやってきて、議論する毎日でした。ついに帰国の日を迎えて大変残念ですが、今後も中国の研究室とはやりとりを続けていくつもりです。

 

 と、余韻に浸っていたところ、本日は学振DC1の内定発表日でした。学振DC1とは、来年度博士課程に上がる予定の若い研究者の卵への科学フェローシップで、3年間、給料と研究費がでるというものです。なんと、来年の4月から私の研究室に二人、博士課程の学生が入ってくることになりました。こんな意識高い?学生がいたことはなく、修士1年のころから二人とも博士に行くと言っていました(二人ともうちに来るかは決まっていませんでしたが)。ということで、当然ながら学振DC1を狙いに行きます。申請締め切りは修士2年の5月ごろでした。それまでに論文が出るか出ないかでDC1の当たる確率がだいぶ変わります。一人はなんと運良く修士1年の8月に無事論文が受理されて、相当DC1の当たる確率が上がりました。もう一人は、締め切りギリギリに論文のレビューの結果が帰ってきて、メジャーリビジョンでした。リジェクトじゃなかった!ということで、論文受理の見込みを申請書に書くことができました。

 で、論文持ちの学生の方はめでたくDC1採択内定との結果でした!すごい!おめでとう!分野内で64人申請して9人が1次選考での採択ということで、採択率は14%。厳しいですね。この分だとうちでもう一人というのはだいぶ難しいと思うのですが、メジャーリビジョンの方の彼の論文は順調にリバイスを提出しており、今回ダメでも次に論文持ちでリベンジできると思います。がんばれ!

ヘルニアからの坐骨神経痛

 もう随分古い話なのですが、といっても、今年の5月です。急に腰が痛くなりました。バドミントンでぎっくり腰みたいになった痛みに似ています。ですが、バドミントンでなったわけではありませんでした。うーん、なんだろうな、と思っていると、日に日に痛みが増して行きました。バドミントンでぎっくり腰やったりすると日に日に痛みは和らいでいくものですが、今回は悪化していました。これはおかしいということで、病院に行きました。腰の痛みだけでなく、両太ももの側面にツッパリ感もあり、そのことを医者に伝えると、

「ヘルニアの疑いがありますね、MRIを撮りましょう」

となりました。

 初めてMRIを経験しました。狭い隙間に腰の領域だけで40分程度じっとしていなければならず、まぁまぁ苦痛といえば苦痛です。全然耐えられる程度ですが。なんだろ。

 で、診断結果はヘルニアでした。若い頃、足の骨折で整形外科に入院していた時、ヘルニアで入院していた相部屋の人は、赤ちゃんの歩行器のようなものを使って移動し、ベッドでは足を引っ張り、手術の日を待つような感じでした。え!俺もそんな感じになるのかな?と思っていたのですが、そんなことにはならず、痛み止めの薬で様子を見ましょう、とのことでした。そんだけ!どうも調べてみると、ヘルニアは自然に治ることが多く、痛み止めで様子を見るのが近年の治療?とのことでした。足に麻痺がでたり、排尿に支障が出た場合は48時間以内の緊急手術だそうです。手術の他にも酵素注射などもあるようです。また強烈な痛み止めである注射による神経ブロックもあるようです。私の場合は単にほんとロキソニンと胃腸薬のみでした。

 で、様子を見ていると腰の痛みは引いたのですが、尻から太ももにかけてのしびれに移りました。いわゆる坐骨神経痛というやつみたいです。まぁまぁ痛い。足に力が入らない。またまた病院に行ってみました。またMRI撮りました。ところ、ヘルニアの部分が前回よりも少し突出しており、進行しているようでした。ですが、やはり痛み止めで様子をみるとのことでした。これが6月中旬だったでしょうか?

 それから、痛み止めもやめて、足の痺れに任せて生活しておりました。一時期は本当に左足の押しが効かなくて、びっこ引きながら歩いていました。個人的な調べによれば、七割は半年以内に勝手に治る、とのことでしたが、本当だろうかと不安に思いつつも、多分そうなるだろうという楽観も半分ありつつも、でした。その間にも三波川帯の巡検に行ったり、バドミントンやったり、ジムに行ったりしておりました。なんとかなるものですね。

 で9月。朝起きて布団から立つ時に、左足の押しに力強さを感じ、あ、やっぱり勝手に治るんかな?と思いつつあります。なんとなく治りそうな兆しが見えて、ようやく書く気になりました。

 9月は12-15日で東京でワークショップ、16日移動日の17-19日が地質学会(京都)、24-26日は室戸巡検、10月5日から21日までドイツの予定です。楽しみです。

燃え尽きていたのだろうか?

 お久しぶりです!6月頭から2ヶ月半、何やっていたのでしょうか?怒涛の3週間が終わって燃え尽きていたのでしょうか?

 この2ヶ月半、何やっていたかつらつらスケジュール帳を見返してみると・・・。

 授業、会議、試験対応。通常業務ですね。で、学生と論文修正。6月はほんとこれくらい。7月に入っても、まだ学生と論文修正が続いていて、中旬ごろにほぼ終了しました。あとは会議、授業、試験対応。7月下旬ごろ、分析からみで九州大学に出張。あと、修士2年の中間発表。8月上旬にオープンキャンパス理工学部の広報委員長なので、ちょっと雑用がありました。その直後、恒例の三波川巡検。新たな発見がまたありました!で、帰省。

 こんなところでしょうか?

 あぁ、あとは、地質学会やAGU、JSPSプロジェクトのワークショップの要旨、学生分も含めて大量でした。地質学会のセッションコンビーナ、とか。国際誌の編集対応と国際誌のレビュー担当もありました。というか、レビューはまだ終わってない。

 この間にも学生がちょろちょろやってきては、議論をしていました。学生の研究の進み具合は結構いいです。楽しみな結果がどんどこでています。ひとり出来の悪い学生のために、遅れて始めても大丈夫なようにネタを一個仕込んでおりました。これもまた良いネタになりそうです。

 こんなことだらだら書いていると、思ったより仕事していた気がします。であるのになぜか、燃え尽きてたなと感じているっていうか。なんでしょうね。なんでしょうね。なんかこのやらされている感。何か、楽しいことに集中する必要がある。