ついにドイツに来たぞ

 現在ドイツにおります。いえーい。

 2016年にJSPS国際共同研究加速基金でドイツに一年滞在していました。その時一緒に研究していたドイツ人の友達と新しい共同研究を立ち上げ、2020年に新しい国際共同研究化加速基金を当てました。これは、ドイツにやや長期で滞在して、何か分析するような研究を対象としており、本当は毎年ドイツに来られるはずだったのですが、コロナのおかげで全く来れませんでした。今年になってようやくですね。去年も来れなくはなかったのですが、イギリスでコロナにかかり帰って来れなくなるような日本側の制限がしばらくあったので、躊躇しておりました。

 2017年に帰国して早くも6年が経ち、ドイツ人の友達研究者にも紆余曲折があり、今はハレ大学のフルプロフェッサーとなっています。ということで、私も今はハレにおります。2週間ほどの滞在予定で、現在は5日目かな。分析と論文の打ち合わせを行う予定です。

 日本から飛行機でフランクフルトに夜に着いて泊まり、フランクフルトから電車でハレまでおよそ3時間。ここでもちょっとトラブルがありましたが、無事ハレ中央駅に到着。ハレ中央駅からトラムで大学に行くことになっていました。2番のトラムに乗れと教わって、ホームに行ったはいいけども、どっち向きに乗ったら良いのかわからない。近くに立っていたおじさんに聞くと、

「あ、私もそこに行くところなんだよ。こっちのホームで大丈夫だよ。」

と教えてくれました。なんだか話に花が咲きまして

「どっから来たの?」

「日本です」

「え、ちょうどうちの娘が今日本にいるんだよ。」

「えー!」

と言って、娘さんから送られてきた写真を見せてくれました。

いきなりハレの印象が良くなりました。

が、まだトラブルが続きます。

 

やや長期の滞在なので、キッチン付きのホステルを予約していました。Booking.comの示す場所に行くと、ドアに鍵がかかっていて中に入れない。電話するとドイツ語しか喋れない人が出てきて、全く通じない。この時もう夜7時過ぎでした。テキストメッセージで暗証番号を教えてもらい、それを打ってもドアは開きません。すると、背後に人が来て英語で話しかけられました。

「どうしたの?」

「今日ここに泊まる予約をしているんだけど、中に入れません。ドイツ語喋れますか?」

「僕もドイツ語できない。とりあえず中に入れてあげよう、誰かに助けを頼もう。」

と言って、中に入れてもらいました。全く違う暗証番号でした。

中に入ると上から階段を降りてくるおじさん。

「あなたの助けが必要です。ドイツ語喋れますか?」

「いや、俺もドイツ語喋れない。でもここのシステムに詳しいからなんとかしてあげる。実はここはホステルを管理している会社のメインオフィスがある場所で、実際に泊まるホステルは複数あるんだよ。君の部屋はどこなんだ?」

「え、そうなんですか?!それ超難しすぎる。私の部屋はどこなのか分かりません。」

実際、Booking.comに来ていた長文のドイツ語メッセージにはそんなことは書いていないようでした。しかし、先ほどのテキストメッセージに私の部屋番号が書いてあったのでした。なんとかストリート12のW5だと。それがストリート名でW5が部屋番号だとは思いませんでした。おじさんが指摘してくれて分かりました。今改めて見てみるとどう見てもちゃんと書いてありました。グーグル翻訳したんですけども、把握しきれていませんでした。気が動転していて理解力が落ちていたと思われます。

「俺車持っているから、そこまで送ってあげるよ。」

と言われ車で2分ほどのところに送ってもらい、一緒に部屋を探してくれました。無事暗証番号でドアの扉が開き、マジで安心しました。

「ありがとう!あなたの出身はどこですか?」

ルーマニアだよ。ここではコカコーラで働いているんだ。」

お礼を渡そうとすると、

「いらないいらない、良い夜を!」

と言って去っていきました。

その後、ドイツ人友達とその奥さんと同僚でインド料理屋でディナーを楽しみました。ドイツビールが美味かったです。

さようなら、おめでとう

 昨日、ついに一緒に研究していた中国人の学生が帰国の途につきました。昨日の夕方に授業の室戸巡検から大学に帰ってきて、その足で高知空港まで見送りに行きました。

 早いもので彼が高知に来てから15ヶ月が経ったのでした。彼は中国政府の科学関連組織から奨学金という名目の滞在費をもらっていました。これは中国の博士課程の学生に向けた留学のための奨学金で、彼は正式には中国の大学の博士課程の学生なのです。コロナ禍で散々延期になり、その間に博士を取ってしまうとこの奨学金をもらう権利が失くなってしまうので、博士の取得を遅らせてまでして日本に来てくれました。元々は地質ではなく、実験技術系の研究をしていたのですが、そのテクニックを天然に生かしたいということで、私のところに来たものの、当初は卒論生よりちょっと良い程度の地質学の知識で、どうしようかと思っておりました。ですが、やはり博士に今にもなりそうな優秀な学生であって、ほぼほぼ全くど素人の分野に果敢に挑戦し、まじですごい結果を出しました。ま、やっていることはそれほどすごくなくて、色々な人に助けられてデータを出してもらって、といった感じではありますが、結果がものすごくよかったです。ラッキーです。その上、この研究の設計とデータの解釈については彼の力が大きいのです。このために、大量の論文を読み、もしかしたらこのデータとこのデータはこのように関連しているのではないか?と私の部屋までやってきて、議論する毎日でした。ついに帰国の日を迎えて大変残念ですが、今後も中国の研究室とはやりとりを続けていくつもりです。

 

 と、余韻に浸っていたところ、本日は学振DC1の内定発表日でした。学振DC1とは、来年度博士課程に上がる予定の若い研究者の卵への科学フェローシップで、3年間、給料と研究費がでるというものです。なんと、来年の4月から私の研究室に二人、博士課程の学生が入ってくることになりました。こんな意識高い?学生がいたことはなく、修士1年のころから二人とも博士に行くと言っていました(二人ともうちに来るかは決まっていませんでしたが)。ということで、当然ながら学振DC1を狙いに行きます。申請締め切りは修士2年の5月ごろでした。それまでに論文が出るか出ないかでDC1の当たる確率がだいぶ変わります。一人はなんと運良く修士1年の8月に無事論文が受理されて、相当DC1の当たる確率が上がりました。もう一人は、締め切りギリギリに論文のレビューの結果が帰ってきて、メジャーリビジョンでした。リジェクトじゃなかった!ということで、論文受理の見込みを申請書に書くことができました。

 で、論文持ちの学生の方はめでたくDC1採択内定との結果でした!すごい!おめでとう!分野内で64人申請して9人が1次選考での採択ということで、採択率は14%。厳しいですね。この分だとうちでもう一人というのはだいぶ難しいと思うのですが、メジャーリビジョンの方の彼の論文は順調にリバイスを提出しており、今回ダメでも次に論文持ちでリベンジできると思います。がんばれ!

ヘルニアからの坐骨神経痛

 もう随分古い話なのですが、といっても、今年の5月です。急に腰が痛くなりました。バドミントンでぎっくり腰みたいになった痛みに似ています。ですが、バドミントンでなったわけではありませんでした。うーん、なんだろうな、と思っていると、日に日に痛みが増して行きました。バドミントンでぎっくり腰やったりすると日に日に痛みは和らいでいくものですが、今回は悪化していました。これはおかしいということで、病院に行きました。腰の痛みだけでなく、両太ももの側面にツッパリ感もあり、そのことを医者に伝えると、

「ヘルニアの疑いがありますね、MRIを撮りましょう」

となりました。

 初めてMRIを経験しました。狭い隙間に腰の領域だけで40分程度じっとしていなければならず、まぁまぁ苦痛といえば苦痛です。全然耐えられる程度ですが。なんだろ。

 で、診断結果はヘルニアでした。若い頃、足の骨折で整形外科に入院していた時、ヘルニアで入院していた相部屋の人は、赤ちゃんの歩行器のようなものを使って移動し、ベッドでは足を引っ張り、手術の日を待つような感じでした。え!俺もそんな感じになるのかな?と思っていたのですが、そんなことにはならず、痛み止めの薬で様子を見ましょう、とのことでした。そんだけ!どうも調べてみると、ヘルニアは自然に治ることが多く、痛み止めで様子を見るのが近年の治療?とのことでした。足に麻痺がでたり、排尿に支障が出た場合は48時間以内の緊急手術だそうです。手術の他にも酵素注射などもあるようです。また強烈な痛み止めである注射による神経ブロックもあるようです。私の場合は単にほんとロキソニンと胃腸薬のみでした。

 で、様子を見ていると腰の痛みは引いたのですが、尻から太ももにかけてのしびれに移りました。いわゆる坐骨神経痛というやつみたいです。まぁまぁ痛い。足に力が入らない。またまた病院に行ってみました。またMRI撮りました。ところ、ヘルニアの部分が前回よりも少し突出しており、進行しているようでした。ですが、やはり痛み止めで様子をみるとのことでした。これが6月中旬だったでしょうか?

 それから、痛み止めもやめて、足の痺れに任せて生活しておりました。一時期は本当に左足の押しが効かなくて、びっこ引きながら歩いていました。個人的な調べによれば、七割は半年以内に勝手に治る、とのことでしたが、本当だろうかと不安に思いつつも、多分そうなるだろうという楽観も半分ありつつも、でした。その間にも三波川帯の巡検に行ったり、バドミントンやったり、ジムに行ったりしておりました。なんとかなるものですね。

 で9月。朝起きて布団から立つ時に、左足の押しに力強さを感じ、あ、やっぱり勝手に治るんかな?と思いつつあります。なんとなく治りそうな兆しが見えて、ようやく書く気になりました。

 9月は12-15日で東京でワークショップ、16日移動日の17-19日が地質学会(京都)、24-26日は室戸巡検、10月5日から21日までドイツの予定です。楽しみです。

燃え尽きていたのだろうか?

 お久しぶりです!6月頭から2ヶ月半、何やっていたのでしょうか?怒涛の3週間が終わって燃え尽きていたのでしょうか?

 この2ヶ月半、何やっていたかつらつらスケジュール帳を見返してみると・・・。

 授業、会議、試験対応。通常業務ですね。で、学生と論文修正。6月はほんとこれくらい。7月に入っても、まだ学生と論文修正が続いていて、中旬ごろにほぼ終了しました。あとは会議、授業、試験対応。7月下旬ごろ、分析からみで九州大学に出張。あと、修士2年の中間発表。8月上旬にオープンキャンパス理工学部の広報委員長なので、ちょっと雑用がありました。その直後、恒例の三波川巡検。新たな発見がまたありました!で、帰省。

 こんなところでしょうか?

 あぁ、あとは、地質学会やAGU、JSPSプロジェクトのワークショップの要旨、学生分も含めて大量でした。地質学会のセッションコンビーナ、とか。国際誌の編集対応と国際誌のレビュー担当もありました。というか、レビューはまだ終わってない。

 この間にも学生がちょろちょろやってきては、議論をしていました。学生の研究の進み具合は結構いいです。楽しみな結果がどんどこでています。ひとり出来の悪い学生のために、遅れて始めても大丈夫なようにネタを一個仕込んでおりました。これもまた良いネタになりそうです。

 こんなことだらだら書いていると、思ったより仕事していた気がします。であるのになぜか、燃え尽きてたなと感じているっていうか。なんでしょうね。なんでしょうね。なんかこのやらされている感。何か、楽しいことに集中する必要がある。

怒涛の3週間、英語喋りまくり飲みまくり

 はぁああ、疲れました。怒涛の3週間。しかし楽しかった。

 

 始まりは5月10日でした。米国から3名の研究者が高知にやってきまして、9日間の野外調査です。1名は前から知っているペンステート大学のドン。他はアンディーとジョンで、ドンの共同研究者です。二人ともやや若めだと思います。牟岐2泊3日で、一旦高知に戻ります。そこで、なぜかペンステート大学のドンの同僚が別の調査で高知に来ており、そのホストをしている東北大の先生と合流しました。東北大の方々とは3月に会ったばかりです。夜はうちの学生と先方の学生もまざって大人数の飲み会になりました。その後2日間は横波と汗見川で合同調査となりました。東北大のグループと別れた後、横浪再訪。アメリカ人らしく?なぜかドンの奥さんと娘さんが合流。1日サンプル送付と移動に使い、中土佐黒潮本陣へ。ここでドンの家族共々2泊して、久礼と興津(街の方)でサンプリング。翌日朝にドンの家族を中土佐駅に送ります。母娘で京都に行くそうです。その日に興津の崖くだりを決行し、最後のサンプル送付。翌日は休憩日となりました。その日は私の妻の誕生日でした。いい加減飲み続けだったのですが、妻の誕生日も赤ワインでお祝いしました。飲ませてもらえないかと思っていたのですが、飲めました。

 20日の日曜日。飛行機で東京へ。地球惑星連合大会(JpGU)に参加するため前日入りです。夜は卒業生と現役学生と東京で飲みました。二次会に行ってしまい、なぜか終電ギリでした。いつも学習しませんな。翌日から学会。今回は禁煙に成功しているので、学会喫煙所仲間とあんまり会いませんでした。すれ違ってちょっと挨拶はできました。月曜から毎日、やはり卒業生と飲み、恩師のフェロー就任お祝いで飲み、プロジェクト関連で飲み飲み、結局最終金曜日以外は飲み会でした。さすがに疲れ、金曜日は一人でラーメン屋に行ってビール一杯でやめました。木曜の飲みがやばかった。

 ジョンも学会に出ており、知っている外国人もややいて、今年は思ったよりも国際化が進んでおりました。とくに英語セッションだったスロー地震のセッションは日本人の英語もレベルが高い印象でした。今年は私はポスター発表だったのですが、外国人が少なからずきてくれて、楽しかったです。

 で、土曜日。朝一で東京大学地震研究所へ。海山沈み込みに関する国際ワークショップに参加しました。主催側でしたので、やや気を使いましたが、みなさん好意的だし、頭いいし、議論うまいし、大変助かりました。いいワークショップっだっと思います。もちろん夜は飲みです。翌日高知に戻りました。そのワークショップに呼んでいたイタリア人のパオラも一緒でした。というのも、パオラを誘ったのがJpGUの登録よりも後で、ワークショップのためだけに日本に来てもらうのに申し訳なく思って、高知の地質巡検をする約束をしていたのでした。ちょうどよいことに、高知コアセンターにパオラの知り合いのイタリア人ポスドクであるサミュエレがいて、いろいろ手配してくれました。どうもサミュエレは来月パオラと同じキャンパスで研究員として働くらしく、話すことが多々あったようです。高知に着いてすぐ芸西メランジュをちょっとみて、夜は飲みです。翌日横浪メランジュを見て、昼過ぎに高知コアセンター、で空港に送って帰って行きました。

 実はパオラは来年度の私のサバティカル(予定)の受け入れ教員で、その打ち合わせもありました。まだだいぶ先の話ですが。パオラ、サミュエレと私で何か共同研究できたらいいね、という話になりました。楽しみです。

 ということで、怒涛の3週間、飲み続けの日々でした。英語漬けでもありました。大変疲れました。でもすごい楽しかったです。