日本に帰ってきてもう大喜びでいろいろ本を買いましたが、どれもこれもイマイチで全然読み進んでいませんでした。
どうも日本語で理解できる言論が安っぽく見えてというと、何言ってんだこの西洋かぶれが!と思われそうですが、そういうことではなくて、いや、世の中ほんと何が真実で何が嘘なのかよく分からんなぁと、なんかこれも嘘であれも嘘でみんな適当なことを言っているんじゃないかと、特にテレビで有名な識者と言われる人の本なんかはもう読む気もしないわけです。しかし本屋の平積みはそういう本が多い感じで、なんかみんな踊らされてるよ!っていうさめざめした気分になったりしてます。別に米国がいいって訳じゃなくて、日本を離れてたという意味でしかないです。別の全然違う価値観が存在していることを肌で感じたということだと思います。あまりうまく言えませんが。
ですが、読んでいる途中の本をほったらかして、一気に読み終わった本に巡り会いました。今日読み終わりました。
「さらば、公立大学法人横浜市立大学」吉岡直人
です。
学問の自由、大学自治が崩壊して行く様がよーく書かれています。文章うまいです。読みやすい。
いや、明日は我が身かもしれません。というか状況はかなり似ています。
教授会の権利の縮小、学長選考の非民主化、学内競争的資金の拡大(一般研究費の縮小)。
カリキュラム編成権と人事権が教授会に残っているところが大きな違いでしょうか。
あれ、今は教員は全員単一大学院組織に所属のはずだから、人事はどうなってるのかな?もしかしたら学部から引っぱがされたかも。
市大の話は日本にアカデミズムなんて根付いてないよね、と思わされる事件ですね。
ちょうど昨日、東北大学大学院生が指導教員との不和で自殺した問題が報道されていましたが、これまた歪んだアカデミズムの一面ではないかと。世界はもっと自由で多様なのになぜ死ぬ必要があるのか、と思います。
米国では、とまたアメリカの話を持ち出して日本を批判するのかというとそうだと言わざるを得ませんが、ファカルティーは指導なんてほとんど全然してませんでした。修士の学生が「おら、研究者になる!」といって入ってきたけども、自らどうも芽がないとみるやさっさと修士論文仕上げて出て行きました。「おら、プロスキーヤーになる!」とか言ってたみたいです。米国では博士5年一貫が普通なので、修士論文仕上げちゃうって言うのは大きな路線変更なんですね。
しかもこういう子にも在学中は給料や学費がボスから出ています。うまくいかない学生を養い続けねばならない状況に陥っている教授もいます。学生も、ま、ちょっとまちがっちゃったよ、と思ってさっさと出て、仕事してやっぱもう一回勉強したいと思えば、戻れないことも無い。そういう自由さや多様さが受入れられるべきではないかと思わなくもないです。
アカデミズムというのはそういう理想なのであって、国民・地域住民の余裕なのです。効率主義はこれを破壊する。
これも程度の問題で絶対的な一般化はできませんね、と最後に逃げる。