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親鸞

 久々に読書の話です。
 五木寛之の「親鸞」上下、「親鸞ー激動編ー」上下の4冊を一気に読みました。大変面白かったです。
 親鸞は「念仏すればどんな悪人でも浄土に行ける」という教えで有名な浄土真宗の開祖と言われています。この教えは、そんなに単純なもんではなくて、大変奥深い意味があるということがよくわかりました。例えば、悪人ほど浄土に近づけるのだから、悪行をもっとせよという誤解を招く。あるいは、念仏したって生活や体の不自由が良くなるわけでもないならなぜ念仏が必要なのか?という疑問。こういう問題にはたと膝を打つような例え話が語られて、納得した気分になるのです。私の力量ではここでそれらを十分述べることはできませんが、なんとかトライしてみますと、一言で言えば、信じるものは救われる、信じれば暗闇の中に道しるべとなるべき光が見える、光が見えれば背負う荷物が同じであっても頑張れる、そういう教えであると思われます。そのときに「阿弥陀如来様ありがとう」とおもわず口をつくのが念仏であると。「他力本願」というのは、人はだれしも畏れ多い何者かの力によっていかされている、という意味であって、人任せで楽しようという意味ではないですよ。
 という風に理解したときに、遠藤周作キリスト教観と大変良く似ていると感じました。遠藤周作は罰則の厳しい父なる神としての欧米のキリスト教を、すべてを許し包み込む母なる神に日本的に解釈し直したと言われています。踏絵でキリスト教を捨てた弱者こそ、キリストを感じることができるのではないか?と書いて、キリスト教界から異端扱いされたということです。キリストはほんとにいるんでしょうか?という問いに、たとえ神が沈黙していたとしても、見えざる同伴者を感じることこそが、生きる道しるべである、と。これは「沈黙」のテーマではないかと思います。
 親鸞のいう阿弥陀如来様こそがすべての人を許し包み込む存在であるとする教えが、遠藤周作のいう母なる神とかぶって見えたのでした。仏教とキリスト教と出自は違えども、同じようなところに辿り着く、なにか普遍的なものがあるのではないかと思いました。それはしかし、日本的なものかもしれません。