なぜ地震のメカニズムを知りたいのか?知る必要があるのか?

 昨日尻切れとんぼだった話の続きです。すばり!「なぜ地震のメカニズムを知りたいのか?」
 これまでですと,「理学」の理念であるところの,「人は知的好奇心で生きているから!」ということを「ドヤ顔」で言って済ませていたところですが,最近はどうもそれだけではないのではないかと感じています。知識というのはもっと社会性があるのではないか?と思い始めています。そして,地学や地球観というものが,一般教養として大変重要なものではないかと考えています。
 まぁ,自分が地学に従事しているということで,我田引水なポジショントークであることは否めませんが。
 と,ちょっと逃げを打っておいてなお述べておきたいことはですね,一般論として,人は不確実なことに対して判断しなければならない,と。例えば,未曾有の自然災害なんかは,まさに想定不能の多様な事態であって,それに対応する判断が求められるのです。そのときに,地学や地球科学の知識が判断材料としてフル稼働するはずなのです。知っているか知らないかは大きな違いなのです。知らなかったからあそこで判断を間違ったと思っている人がたくさんいるのと思うのです。だから皆,知りたいと思う。
 これはですね,地震に限りません。これまた未曾有の大災害であった,紀伊半島の台風豪雨災害。台風で亡くなる方は,多くの場合,様子を見に行った人が流されるようなケースが大半らしいですが,今回は避難場所が直接襲われるという,前代未聞の台風災害だったそうです。原因は巨大な台風の速度が北に上がっても非常に遅く,また紀伊半島の西側を通過したため,そのような豪雨が長期に渡ったためです。台風なんて進路はばっちり予測できるし,天気予報もまぁ当たるのに,あの災害は予測できなかった。そんな遅い巨大な台風が紀伊半島の西側を通過したのが初めてだったからです。
 原発事故もそうです。シーベルトやらベクレルやら,聞いたこともないようなことをみな知る必要がありました。水素爆発のあと,放射能を持った断熱材と思われる繊維状の細かな金属がキラキラと空から降ってきたそうです。放射性物質はチリとなって風に舞っている。風下には逃げるな!という判断が下るべきでしたが,そうはなりませんでした。ちょっと離れると,チリは目に見えないほど小さくなるのです。
 いや,なんかまとまらなくなってきました。とにかく知識をもって正しく判断したいんだ。だけど未経験なことなら間違いもする。だが,不測の事態に対して最善を尽くしたと言うために,勉強するんですね。生き残ったものは新しく得た知識を有効に活用する。そういう活動の一部に理学はあります,ね?